Fall 2020

「さめざめと」の翻訳の面白さ

「さめざめと」の翻訳の面白さ ビーラ歩実  同志社女子大学の学生が作った「さめざめと」という映画を翻訳するのはとても複雑で、興味深い経験だった。私は翻訳はもちろん言葉の意味を訳すことだが、その翻訳の自然さも大事で、文化的なことも考えなくてはいけないということが学んだ。グループと一緒に翻訳するとき、様々な意見を聞く場合は難しいが、大変役立つという経験もした。また、「さめざめと」の翻訳する経験のおかげで、言語と性格の関係について考えさせられたことも多くある。例として、発見をしたことの一つは方言の影響、つまり、どのように方言や独特な俗語が人物の性格や気持ちを伝えるかということだ。  最初に、「さめざめと」を字幕なしで観た時、本当に感動したが、たまに理解できなかったところもあった。翻訳のかていが進むにつれて、方言や単語がもっと理解できるようになって、映画の話や人物も分かるようになった。特に楽しいと思ったことは主人公のゆかりが言ったことを全部、ゆかりの性格によくあうはずの英語を考えることだった。ゆかりの強さや真面目さ、いつも深く考えているような性格を英語で表すのも大切なのではないだろうかと思った。また、前に書いた通り、「さめざめと」を訳すと、「本当に方言の使い方で性格を伝えることができる」と思うようになった。ペアかグループで翻訳するたびに、方言や俗語について話した。例えば、どの単語が「おじさんっぽい」話し方か、どの英語の俗語でゆかりの若い話し方を伝えればいいか、など。 例えば、ゆかりが家族とテレビ電話での会話が終わった時に、「めんどくさー」と言って、翻訳で英語の若者っぽい話し方の「Ugh.」を使うことにした。方言のような文化的なことは直接な意味ほど大事ではないかと考え始めた。全体的に、「さめざめと」を日本語から英語まで訳すプロジェクトを通して、翻訳を新しい視点から見えるようになって来たと思う。もしも、このようなプロジェクトをする機会があったら、グループと一緒に翻訳した方が良くて、文化的なことを考えると良くなると思う。また、もちろん、できるだけプロジェクトを楽しんでください!

いい翻訳ができるように

レイ・レン 本学期日本語四年生の皆さんと一緒に「さめざめと」の翻訳をした。英語も日本語もできる私にとって翻訳は一見難しくないが、実は考えなければならないということは少ないというわけではなかった。 まず、ただ「さめざめと」の主旨を理解することが翻訳には足りない。聴衆に原作をそのまま見せることは大切なので、翻訳に曖昧な考え方をしてはいけないだろう。だから、ビデオに出た台詞、メール、レシピなど、全ての日本語情報を収集して理解することは基本中の基本だと思う。 次に、集めた日本語情報を理解することは簡単ではなかった。文字にははっきり言えないニュアンスがあったり、台詞には鮮やかな感情が含まれていたりした。例えば、理系の論文を読む時、「黒色」は黒い色と理解さればいいが、文学の「黒色」は暗い気持ちも表せるので、文字通り読まれたら作品が完全に理解されなくなるだろう。例えば、私は村上春樹の「夜中の汽笛について」を読んで、確かに少年は少女を愛していると思ったが、高橋一生さんの泣きそうな声で少年の愛を朗読した時、少年の深刻な感情をより一層感じた。それ故、翻訳する為、一目瞭然な情報が分かるだけでなく、日本語に隠れている意味や感情にも気がつくことが不可欠だと思う。 しかし、日本語が分かっても、完璧な英翻訳ができるわけではない。「愛している」は日本語で「月が綺麗ですね」という言い方もある。唐突に愛を伝えないで、相手に自分の感情を暗示することは婉曲で美しいと思う。英語話者のため「月が綺麗ですね」を「I love you」に訳したら日本語の婉曲が失せてしまう。但し「how beautiful is the moon」と直訳したら、日本文化が詳しくない英語話者としてより分かりにくいだろう。そのため、美感を妥協せざるを得ない。同じく、私たちは「さめざめと」を英語に「sorrowfully」と翻訳して、意味が合っているが、「さめざめと」の静かな悲しさが失せてしまった。とっても残念だと思うが、文の長さと分かりやすさから考えると、「sorrowfully」は選べる範囲の中で一番いい選択肢ではないだろうか。 だから、いい翻訳ができるように、日本語原作をじくっり研究して理解することが必要だ。そして、日本語原作にぴったり合う英翻訳を無理矢理に求めず、聴衆のために翻訳を適切に調整して、完璧な翻訳を目指すより目的が果たせる翻訳をすることが大切なのではないかと思う。

翻訳する時、難しいこと、面白いこと、大切なこと

クイン・ボケリー 今学期、様々な面白くて難しいことを習った。日本語を翻訳するのは大変だ。特に「さめざめと」の翻訳プロジェクトでは、方言や意味合いが翻訳しにくかった。例えば、どのように関西弁を翻訳するか。標準英語か英語の方言にしてみたらどうか。さらに、「じいちゃん」を翻訳する時、「Gramps」か「Grandpa」のどちらを使うか。「あーいたい」のような掛け言葉は「(I) want to meet _____」か「it hurts」のどちらの方がいいか。選ぶ時、どちらの翻訳がキャラクターの性格、感じ、考えを最もよく表すということを決めるのは大変だ。 それに、日本語だけではなくて、文化も翻訳すべき場合もある。映画やビデオの翻訳をする時、言語より文化の翻訳のほうが難しいのは、現れている文化を言葉で伝えなければならないからだろう。暗黙の文化的なことや伝統を説明するために、長い文を書く必要があるが、ビデオではそれを表すと逆に場違いになることもある。一番いい方法がないように思う。さらに、聴衆によって、どのようにその文化を言葉で伝える質問を答えるかも違うような気がする。 そして、翻訳の時、聴衆は要因かもしれない。このクラスを取るまで、聴衆についてあまり考えたことがなかった。日本語を勉強し始めた時、自分の作文やプロジェクトの聴衆はたいてい先生や日本語を勉強している学生なので、自分と比べて、聴衆の方が日本語を知っているか同じくらい知っていることが当たり前だった。でも、聴衆の大切さについて学んで、それに驚いた。 面白かったと思う。聴衆について考えることで、翻訳は内容を翻訳するだけではなくて、人々を繋ぐことであること、つまり、翻訳は社会的なコミュニケーションの方法の一つであることに気がついた。翻訳は自分と原文だけのコミュニケーションのプロセスだというわけではない。むしろ、翻訳は自分が原文を通して無数の人々と通じるプロセスなのではないだろうか。翻訳する人にとって、自分ではなくて、「原文の一番伝えたいことは何か」という点を考えることが最も重要だと思う。言い換えれば、聴衆に話を分かってもらうために、翻訳の時、何か肝心か、何か肝心じゃないか決めなければならない。それは翻訳の難しくて、面白くて、一番大切なことだと思う。

翻訳の芸術

イエナ・リ 今学期のプロジェクトのおかげて、翻訳についてなことをたくさん学んで、考えた。その中で一番興味があるのは文化に関す ることだ。違う言語を話している人の考え方や文化も違っているから、翻訳する時、言葉を翻訳するだけでなく、その言語が含めている文化や考え方も翻訳するのが必要だと思う。その上、翻訳する時に聴衆は誰だ、そして聴衆の年齢や仕事や文化背景などを考えなければならない。これは翻訳の難しさの一つだ。他の難しいことは、ある言語で普通に表していることは、ほかの言語で簡単に表せない時があるということで、その場合、選ぶ言葉や言い方をよく考えなければいけない。英語で言い方がない日本語(例えば、パン)の翻訳はとても大変で、作者を伝えたいことが翻訳できないこともある。 更に、翻訳する時、正しい方や言葉を選ばないと、人々に色々な違う意味を伝えて、その違う意味が人々の日常生活に偏見や悪い影響を与える可能性もある。だから、翻訳する時に、コンテキストと本当の意味をよく考えるのが大切だと思う。近代、コンピューターのことは発達しているので、AIの翻訳も流行っている。AIの翻訳は便利で珍しい言語も知っているが、たいてい正しくない。一方、人の翻訳は時間や精神かかるが、感情も入れるし、コンテキストや文化も考えるし、AIより、信用できると思う。だから、翻訳する時、できれば、自分でするのが大切で、AIの手伝いを使わなければならない場合に、自分でチェックして、正しくない所を見つけるのが必要だ。 言語は芸術だ。翻訳も芸術だ。それらは私今の考えだ。 プロジェクトの以外、日本の生徒たちにも大変勉強になった。同志社大学のみんなと一緒に話してよかったと思った。最初はとても怖くて、緊張すぎて、日本語が全然できないこともあった。しかし、みんなはとてもやさしいし、私も自分の考えを言いたいから、最後には もっと日本語で意見を言うのが上手になったと思う。自分の日本語に自信を持って、自分の考えをシェアするのが大切だ。  

翻訳というのはどういうふうにする?

翻訳というのはどういうふうにする? ケリー・ウォーカー 今学期、毎週授業で翻訳についてよく話して、色々な面白いことを学んだ。翻訳について学んで考えさせられたことや翻訳する時に言語の違いに気づいたことなど、翻訳する上で、とても役に立った。 特に、翻訳について学んだことと考えさせられたことは、文だけではなく、翻訳の形と読者についても考えなければならないことだ。翻訳はどんな形にするか、誰のために書くか、最初から分かると翻訳しやすくなると思う。私たちはユーチューブビデオに字幕をつける目的があったので、字幕の長さや読むことの難しさについて考えながら、翻訳をつけた。そして、英語の母語話者だけではなく、英語が分かる人のために字幕をつけたかったから、翻訳の分かりやすさにも気をつけた。この二つのことは、私たちの翻訳の選び方に影響を与えた。例えば、日本語の文にどちらもとてもいい英語の翻訳が二つあって、選べなかったら、「あっ、これを字幕にしたら、長すぎるかもしれない」、「これの方がみんなにとって分かりやすいと思う」などと考えた、その結果、翻訳を選ぶのは簡単になった。 そしてクラスメートと先生の話のおかげで、翻訳の方法だけではなく、翻訳の正体についても考えさせられた。この授業の前に、翻訳は時々大変だけど、いつもだいたいできることだと思っていた。しかし、自分で翻訳したり、他にも日本語版と英語に翻訳されたものを両方読んだりして、やっぱり翻訳できないことは多いことに気づいた。それは、少し残念なことだと思ったけど、必ずしも翻訳をするのは無理だということではない。翻訳というのは、他の言語に完璧なコピーをすることではなく、むしろ他の言語に新たな別訳を作ることだろう。だから、完全な訳を探すより、目的や聴衆にあっている訳を書いてみることも大切ではないか。そうしたら、作品を味わえる人は多くなって、翻訳の大事な目的を果たすのではないだろうか。